2019年5月3日金曜日

下流志向 ~学ばない子どもたち 働かない若者たち~ 内田樹




これは2007年に発売された古い本なんですけど、実家に帰ったら高校の課題図書で買っていたみたいです。読み返してみたら結構面白かったので、メモ。



はじめの部分にこんなふうに書かれています。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、長い歴史的苦闘の成果としてようやく獲得された市民的自由を二十世紀の先進国の市民たちが捨て値で叩き売って独裁政権や機械化に屈服する倒錯を分析した心理学の古典だが、「学びからの逃走」は先人の民主化と人権拡大の営々たる努力の歴史的成果としてようやく獲得された「教育を受ける権利」を、まるで無価値なもののように放棄している現代の子どもたちのありようを示す言葉である。彼らはこの「逃走」のうちに「教育される義務」から逃れる喜びと達成感を覚えているように見える。この倒錯はなぜ生じたのか。

わかりやすく言えば、「せっかく現代には教育を受ける権利があるのに、逃げ出す子どもたちってなんでなんだろう?」という疑問に対して考察したエッセイです。2019年という時が経っても、納得しかない考察が並びます。要は、「等価交換を要求する貨幣の経済合理性と自己選択・自己責任のイデオロギーが結びついて、教育にも市場経済原理が適用されるのが当然とみなす子供が増えている(もちろん背景には親がそうだと思い込んでいる)。それゆえ、日本の公教育のシステム確立に当たって前提となったイデオロギーが現代の自己選択・自己責任のイデオロギーと異なるため、構造的な問題が生じている。教育のサービスの受益者である子供は、市場経済における消費者と似ている行動をするため、教師は文部科学省が制定したマニュアルでは対応しきれない。なぜなら、子供たちは等価交換が教育サービスにも生じるという態度でいるから、公教育が提供するサービスに少しでも不満があると逃げ出してしまう(授業を放棄してしまう)。この現象は、若者の労働にも同じことが言えるのではないか。」という話です。


こっからは個人的な引用と思うこと。まず、「学びからの逃走」とかまさに私の大学時代ですわw端的に言って、都会って魅力が多いんですよね。消費社会を通じた多様な世界が広がっている。自己選択・自己責任のイデオロギーに照らし合わせれば、その逃走もわかっていてやっていたらなオッケーなんじゃないかと思います。#YOLO(you only live once)的な考え方も、自己選択のポジティブな側面を切り取ったイデオロギーだなぁと思います。

  • 「学ぶこと」、「労働すること」は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はおりませんでした。もちろん、まじめに勉強しない人間や勤労を忌避する人間はいつの時代にもおりましたが、そのような行動が社会的に低い評価を受けることは本人も十分に自覚しておりましたし、それがもたらすネガティブな結果も覚悟しておりました。学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。

個人的に、これは日本の少子化と並んで二大功罪だと思ってます。ミクロな観点において、運以外には一生懸命頑張ることでしか人生を変えられる手段はないわけで、そういう「変化」の基になる勤勉さを軽んじる雰囲気はよくないですよねー。今になって思うけれども、思春期から青年期の時にこの価値観に染まると構造的にいろいろ取り返しがつかなくなってしまいます。

  • そして、さらに危機的なんは、子どもの目から見て、学校が提供する「教育サービス」のうち、その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。学校教育の場で子どもたちに示されるもののかなりの部分は子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわからないものです。当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、いうことができないということにあります。 

これは子育てするときに気をつけようと思いました(笑)尤も、まだまだ学ばないといけない分際なので毛嫌いせずに手足を動かします。

  • 戦後日本ではほぼ半世紀にわたって「これだけ努力すれば、これだけの社会的リソースの分配に与かれる」という見通しが立ちました。このように予測できる社会システムを山田昌弘さんは「パイプライン・システム」という術語で読んでいます。学校システムはこれまで典型的な「パイプライン・システム」でした。一度パイプに入ると、何度かの分岐を得て、パイプの中の子どもたちは自動的にある職業、ある社会階層に振り分けられる。.....................リスク社会では必ず二極化が進行します。それは、努力におけるごくわずかな入力差が成果において巨大な出力差として結果することがある、ということです。.....................リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会なのです。...................メリトクラシーは、自己決定・自己責任の原則を成員たちに突きつけます。僕たちがどのような社会的地位にあり、どのような権力や威信や財貨や情報や文化資本を享受しているかはすべて自己決定された個的なふるまいの帰結であり、そうである以上、僕たちはその結果を粛然と受け容れねばならない。僕たちは今そう告げられています。

このリスク社会は本当いろいろ考えさせられます。大きな流れは下り坂な日本なので、そういった中でどう上昇気流に乗るか、先見の明がまさに求められます。

  • 労働主体と消費主体との違いは、一言で言ってしまえば、労働主体は他者からの承認を得るまでみずからの主体性を確証できない。一方、消費主体は、他者からの承認に先立って貨幣を手にした時点ですでに主体性を確保し終えているという点にあります。労働主体は、実際に働いて見せて、それを親や周囲の人々がどう評価してくれるかを待ち、肯定的な評価が与えられた後に、自分はこの世界にとって有用な存在であるという確証を得ることができる。ここには「ことの順序」というものがあります。...........それに対して、消費主体の場合、貨幣の提出と商品の交付は同時的に遂行されます。貨幣と商品の等価交換によって買い手と売り手を含むシステムは変化しない。変化する必要がないし、変化されては困る。.......消費行動は本質的に無時間的な行為なのです。

都会の半グレと田舎のヤンキーの違いはここなんですよね。あと、イキっている大学生やオラついているサラリーマンに付随する悩みは結局「主体性」問題にたどり着きます。



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