2019年5月6日月曜日

格差社会という不幸② 宮台真司


ちょっと時間が空いたと思ったら、GWになってしまいましたw
時間ができたので、二部を書きます。

さすが宮台真司の骨太著作ということで、社会学のフレームワークを用いて、議論に深みをもたらしています。でも、読めば読むほど日本の経済的豊かさは二度とこないなぁと失望してしまいます。そして、それを社会的包括で補うのも期待しにくいです。

この本は2008~9年だから、日本の人口がピークでリーマン・ショックが起きた直後です。2004~2006年だと、就職氷河期の影響もあって、そこそこ多くの若者がニート、ひきこもり、パラサイト・シングルなど若者が働かなくなった現象に対して名前がつきました。それらは、社会問題として取り組む雰囲気がありましたが、ここ数年の失業率は低いです。有名大卒なら複数内定は当たり前と、時代の変化を感じます。

が、そういった目の前の自称に騙されてはいけません。ふと社会を見渡すと”当時ホワイトで安定の大手企業”と称されたメーカーで早期退職者を募るプレスリリースが出まくっています。さらにいえば、新卒初任給がここ20年でほぼ変わらず、いまや韓国並みの安月給という貧困待遇になってます。物価が上がってないという指摘があるのはわかりつつも、社会保障料は右肩上がりという悲劇を考慮すると、平成世代の若者は貧乏なのです。
平成 30 年賃金構造基本統計調査(初任給)の概況

ま、そういった社会とどうやって向き合っていくかを考えながら、人生設計する必要がミレニアム世代にはあるわけです。


結論からいくと、結局、経済格差ってのは無くなりません。ゆえに、論点は格差の対処法に尽きるわけです。
 第一に、資本移動自由化=グローバル化の下で格差社会は不可避です。第二に、中国やインドなど旧貧困国を富ませるグローバル化は不可避です。第三に、ゆえに先進国内の格差拡大を理由にグローバル化を批判できません。第四に、だから各国は格差社会を個人が直撃しないように社会的包括を上げる必要があります。..........「国家を小さくする分、大きな社会で包括せよ」となります。貧困に陥ったり、多少の犯罪で躓いた程度では招来が失われないような相互扶助のネットワークを維持すること。
 別側面から言えば「経済を回すために社会を犠牲にする」のをやめ、「社会を回すために経済を回す」ようにする。それには「外需のための内需を犠牲にするのをやめる」ことが必要です。グローバル化のもとで外貨を稼ぐための高技術・高生産性の外需部門と、労働分配率が支える消費性向のもとになる社会保全的な内需部門を両立させることです。

これは論としては正しいですが、外貨を稼ぐための高技術・高生産性の外需部門が壊滅的になっている日本に未来があるのかはぶっちゃけ謎です。家電、IT、半導体といったマーケットが大きい分野で勝てないといけないのに、希望がある分野は自動車ぐらい。"既得権益に縛られやすい社会は過去に拘束されて、必ず適応速度が遅くなる"とあるように、ここ20年の日本はそこそこ高学歴サラリーマンにとって経済的にドンマイな社会になってしまいました(賃金上昇率の低さと社会保障の負担増を考えれば自明です)。そうすると、やっぱり解の方向性としては、「国を出れる高度人材になる」しかない気がします(だって、政治はすぐには変わらないので人生を投げ打つ覚悟がないと踏み込めません)。

なお、本書の宮台先生の論は以下に集約されます。
 格差論として矮小化されがちな問題の本質は、資本主義体制の存続可能性に関わるもので、「経済を回すことと社会を回すことをいかに両立させる(ことで経済を回す)か」、今日的には「グローバル化と社会的包括性をいかに両立させるか」という問題設定に集約されます。そこには全体主義的設計主義が不可欠なモメントとして登場します。
 グローバル化を背景として「グローバル化に個人が直撃されないような社会的包括が大切だ」という議論が当たり前になった結果、自己責任か社会責任かという対立は重要ではなくなりました。社会的包括のもとでの自己責任であるほかないからです。問題は社会的包括が不十分である場合、国家がどのようにどれだけ関与すればいいかです。

じゃあ、「この社会的包括ってなんだよ?」って話なんですが、小論文的には地域社会、NPO、宗教などの第三セクターのことです。が、我々Millenial世代の場合は、SNSで繋がっている"Active human capital"のことなんじゃないかなぁと思います。イメージしやすい例でいくと、オンラインサロン、趣味を通じた緩い繋がり(#プレ花嫁とかのハッシュタグとかがまさにそれ)、Instagram storyの内輪グループなんでしょう。気持ちビジネスよりだと、Slackとかになるんですかね。つまり、ここまでSocial connectionをOpenにしたSNSサービスは、時代を捉えていたわけです。「え、血縁関係は?」と思った人は筋が良いのですが、日本人はグローバルで相互扶助を行うほど民族的に強くないです。

 中国人や韓国朝鮮人やユダヤ人のように、血縁主義に代表される地域や領域を超えた相互扶助のメカニズムを持っている民族と、日本人のようにそうではない民族とが、分化してくるでしょう。ユダヤ系や中国系の血縁ネットワークは強力で、グローバル化にもかかわらず相互扶助や再配分ネットワーク内で行う力をもちます。だから、グローバル化が進めば進むほど、地域性や領域性に拘束されない相互扶助ネットワーウを頼れる民族は、そうでない民族に対して適応力の違いを見せつけることになります。
これは今の会社でもなんとなく実感があります。韓国人と中国人、インド人はアジアでも国外で生きていく能力が高いです。"海外にある日本人村で回せる規模の利得を外の社会から引っ張れる"日本人が渇望されているということです。

「妬み嫉みの文化」:社会学では「相対的剥奪感」と呼びますが、絶対的な社会的位置ではなく、主観的に比較可能な集団 -準拠集団という- 兼ねあいで定義される社会的位置ゆえに、人は疎外感を体験します。日本の場合、村人が横並びの村落社会が安定的に何百年も続いたことが背景で「他人は他人」とならず、比較を諦めてリスペクトができないのでしょう。
この嫉妬は、日本社会の至るところで見かけます。要は、競争基準が曖昧なのと、競争度合いが生ぬるいから、というのが私の仮説です。でも、社会っていうのは単一尺度で測れるほど単純ではないので、こうした嫉妬感情をコントロールする、さらに言えば、大衆の感情 Politicsができないと、社会間移動の実現はできないわけです。

しかしながら、こうした話になると、必ず「俺なんてできないわ〜」とか「いやそもそも俺らってそんなの無理じゃね?」というネガティブな反応をする若者が一定数います。これを筆者は、自意識問題と呼んでます。

オタク文化の「ダメ」という自意識の蔓延・もやしっ子:「ダメ」という自意識を持つ人は、物事がうまくいかないとき、「自分がダメだから失敗した」というふうに自分に帰責しがちだろうということです。........ただ、何か問題が生じた場合、外部(社会)でなく内部(自分)に帰責するので、社会問題に関する異議申し立てが抑止されます。.....それは競争に負けたという自己を認識したくないだけではないですか。競争に参加する以前に自分で競争をから降りればプライドが傷つかないから。....

これは平成特有の現象なんでしょうか。要は、うまくいかなかったら社会のせいにして、もっとポジティブに生きていけばいいのに、どうしても自己責任論に回帰しがちなわけです。

若者がイキイキできないのは日本社会がクソだから
結婚しにくいのは日本社会がクソだから
手取り給料があがらないのは日本社会がクソだから

(建設的な議論に持ち込むためには日本社会をもっと分解しなければいけないですが、とりあえず、感情のガス抜きとしては社会に原因を押し付けていいと思います。フランスの暴動まで行くのがいいのかはわかりませんが)

なんでこういう自意識なのかというと、個人的な仮説として、身体的ゲームからの離脱が幼少期から可能になったからだと思ってます。要は、ゲームの台頭です。昔はガキ大将の周りに集まって鬼ごっことかベーゴマとか身体を通じての遊びがメインだったわけです。そこには、身体能力の差が明確に現れる残酷な世界なわけです。でも、身体能力はすぐには変わらないので、所与の条件の中で一生懸命生き延びる術を考え、そこの世界で勝負するわけです。しかし、今は、特に都会は、親のお金で資本主義ゲームに顔を簡単に突っ込めるわけです(親の金で最新のゲームを買える、ゲームで課金して同年代で強くなれる、お金で最新の遊びの情報を手にいれる)。そうすると、身体的ゲームから資本主義ゲームになります。でも、このゲームの本質はどれだけお金をゲーム産業に投じられるかにかかっているわけで、消費社会と何も変わりはないわけです。世の中は衒示的消費を煽る世界だから、消費を通じた自己実現ゲームが常に横にあり、金さえ払えばいつでも迎え入れてくれる環境がいたるところあるのでした。


そんな感じで日本社会って全体的にオワコンだなぁという印象が残るだけの読書でした。平成の30年で若者はかなり貧乏になりましたよね。それでも、まだそこそこ豊かな日本でいれるのは、過去の偉人の遺産である点には深く納得しました。財閥系企業や歴史ある日系企業の福利厚生が手厚い理由の背景はマルクス経済があったわけですね。
 戦前から戦後しばらくの時期まで、国を問わず、資本家が『資本論』を読んでいたということです。日本やドイツでは一時期を除けば大学で資本論が講じられていました。だから実際日本の枢要なマルクス主義経済学者には富裕層の子弟が目立つわけです。
 『資本論』を読んで資本家になった人々は、資本主義ゲームを単に合理的に追及していると、いわば「合成の誤謬」の一種として「経済回って社会回らず」の事態を招くがゆえに、『資本論』に書かれたような資本主義ゲームの自己破壊が招来されるという認識を持ちました。「経済回って社会回らず」の事態を回避することが必要だと考えました。
 そのため、組合運動は認められなければならない。保険や年金の分厚さがなければならない。所得再分配の制度も認められなければならない。政府が積極的な経済主体に回らなければならない。資本主義ゲームを放置したら生じるであろう最悪の事態を回避すべく、資本家や政府が多様な緩和措置を講じなければいけない、という認識が広く共有されていきました。


まとめとしては、以下になります。

  • グローバリゼーションによって、日本の中間階層は分断され、格差が拡大するよ
  • 「社会的包括」が格差から自分を守るために必要だよ
  • でも、「社会的包括」の厚みを社会/他人任せの姿勢でいると格差の影響を受けるよ
  • 国内の格差の影響を受けなくなかったら、グローバリゼーションの醍醐味である人的資本の移動を実現させよう


この文章を読んで共感した人は是非、ゲゼルシャフトではなく、ゲマインシャフトの一員として、記事を拡散してください!


おしまい。


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