これは骨太の書籍だったけれども、ポストモダンの時代を把握するには非常によかったです。2005~2010年あたりの日本社会における論点が揃っていて、日本が当時どういう方向性にいたのかが把握できます。と同時に、今の時代にも通用する/役立つ点もあるので、複数回に分けて紹介していこうかと。そして、最近思うのが、こういった表面上の変化に惑わされたり怯えるのではなく、じっくり自分の軸と社会・産業の構造変化を見極めて生きていくことが、幸せになる第一歩なんじゃないかなぁと思いました。(尤も筆者は、社会学者ではないので、論の飛躍や浅い論考には暖かい目で読んでください。)
個人的な読後だとリーマンショック前とリーマンショック後で、日本社会の論調が劇的に変化していることが肌で感じられました。もはや2018年時点では、ほとんどの大衆メディアも日本の構造的問題(停滞する経済成長、社会保障制度)の深刻さに気づくものの、抜本的解決策が見えていないことに諦め、一個人としてどう生き抜くかの論で終わる記事が多い印象です。「日本すごい!」と手放しで言えるのは一部の地方の視聴者向けのテレビ番組だけという。まだ、2000年後半は(小泉政権の構造改革から民主党に政権が渡ったぐらい)、日本国内の諸問題に目を向けていればよかった時代でしたが、2010年後半はグローバリゼーションに取り残された日本社会とともに沈没していくのか、脱出していくかの生き方を問われている時代になりつつ気がします。まさに格差社会になってしましました。ちなみに、平均賃金は10年前より下がっているのに、社会保障料は右肩上がり、つまりは、手取りが少なくなりつつある時代に突入です。
- ハイパー・メリトクラシー社会の到来
メリトクラシーとハイパー・メリトクラシーの違いは、「メリトクラシー」においては学校教育で学ぶことができ、ある程度客観的に計測することができるような「業績」や「能力」ーいわば認知的な「頭のよさ」のようなものーが基準になっていたのに対して、「ハイパー・メリトクラシー」の特徴は「コミュニケーション能力」とか「個性」「創造性」「意欲」「問題発見・問題解決」など、非常に曖昧で、抽象的で、いったいどうやって身につけるのか、どうやって測ったり証明したりできるのかわからないものが重視される。つまり、メリトクラシー社会は教育の平等があって評価も公平だった。成績が優秀であれば、上にいける努力のしようがいがある社会だった。
近代型能力
|
ポスト近代化能力
|
標準性
|
多様性・新奇性
|
知識量
|
意欲・創造性
|
比較可能
|
個別性・個性
|
順応性
|
能動性
|
協調性・同質性
|
ネットワーク形成力・交渉力
|
この近代型能力とポスト近代化能力の比較表を見て何か気づきません?
まず、近代型能力が求められた昭和の時代は「頑張れば報われる神話」が成り立っていた世界でした。でも、ポスト近代化能力である平成の時代は、「多様性、創造性、個性、能動性」って何をしたら測定できる・育成できる能力なんでしょうか。そう、日本はシステムとして遅れているわけです。そして、システムとして遅れていることが深刻になるほど日本社会の豊かさは消え失せてしまったわけです。(そりゃバブルの時とかだったらJapan as No.1なので無視できたかもしれませんが、人口が減る以上市場の魅力は失くなる一方です)
もう一つ、ポスト近代化能力で求められる要件は、まさに新卒一括採用の就活で求められる能力そのものです。つまり、企業が求める人材の要件は当然ですが、時代に応じて変わるってことです。(逆にいえば、こういう背景がわかっていると就職活動などのゲームも簡単に攻略しやすくなるわけです)
実はこの流れに応じて、2000年代後半に私大での推薦入試、AO入試などの一般入試以外の選抜システムが構築されたわけです。18歳そこいらで、小論文+自己推薦+面接なんていうミニ就職活動とも言える選抜方式に参加し、合格を勝ち取るわけです。高校生ながら将来のVisionを示し、それに向かうための課外活動を高校時代から(!)重ねて、アピールするなんて、まさに「新卒の就職活動」そのものです。では、そういった推薦/AO入試で入ってくる人が22歳時点でも俗に言う「(企業から内定を多くとれる)優秀な学生」かといえば、まあそんなこともなく、18歳ぐらいでミニ就職活動をやっている割には結構普通だったりするわけです。それもそのはずで、同じポスト近代化能力が問われるゲームであっても18歳の時のと22~24歳の時では、競争の倍率が違うからです。つまり、先天的にポスト近代化能力が高い学生であっても普通に勉強して学力のみで選抜される旧式の大学入試を突破してくる層は相当数ということです。これが世間でいう「要領がよく、かつ、頭のいい人」のことなんでしょう。感覚的には、私立の有名中高一貫からストレートで大学受験も大学生活も就職活動も勝ち抜いてくる一部の人たちです(それ以外は浪人とか留学で一年遅らせるとか単に時間をかけているだけ)。
この話には続きがあります。
ただ、実はこのハイパー・メリトクラシー社会の到来の背後には、産業構造の変化があります。フランスのマルクス系経済学の一つである、レギュラシオン学派と似通っています。彼は、産業構造が変わると、起業の労務管理や人事管理が「フォード主義」から「ポストフォード主義」へと変わるという学説を唱えました。
フォード主義は製造業中心で大量生産型の近代過渡期の社会に適合し、「構想と実行の分離」ー頭を使う人と体を使う人を分けるーことを特徴に持ちます。一方で、ポストフォード主義はサービスや情報通信産業中心で多品種少量生産型の近代成熟期に適合し、「構想と実行の一致」ー道具的より自足的な高付加価値が重要化する多品種少量生産社会=サービス&情報産業社会では、トップから末端まで均質さよりも創意工夫が求められるーことを特徴に持ちます。
つまり、「誰も考えつかなかったアイディアで、すばらしい製品やサービスを生み出し人を幸せにする喜び」を競うようになります。これによって、「労働を通じた自己実現」を追求しやすくなると、ミシェル・アグリエッタは肯定します。一方、批判理論家ヨアヒム・ヒルシュは、経済における「ケインズ主義」から「グローバル化」へ、政治における「コーポラティズム」から「ネオリベ」へという連携的変化に適応すべく「消費者主義パラダイム(自己実現主義)」が蔓延すると批判します。
スティーブ・ジョブスがiPhoneでヒットを出した頃から、ビジネス雑誌などでよく取り上げられる言葉、「イノベーション」、そして、最近のバズワード、「働きがい」です。つまり、基本的にこういったビジネス界隈でのバズワードには全て社会的構造と経済的状況によって、「大衆を啓蒙せざるをえない」理由があるわけです。以下の引用文が象徴的です。
具体的には、「労働での自己実現」をめぐる本田由紀の言葉を借りると”ハイパー・メリトクラティックな”競争で人材が選別され、その敗者を「消費での自己実現」をめぐる競争に邁進させて経済を回すわけです。明らかにそこには「構想と実行の一致」を「構想」するものによる「構想と実行の一致」を真に受けて「実行」する者からの搾取があるわけです。レギュラシオン学派の研究によれば、日本型ポストフォード主義は、いま述べた事情に加え、70年代における低成長時代の訪れに対応して、資本と労働運動の関係が労使協調路線をとった上での労働環境改善へと舵を切らざるを得なかったことにも結びついてます。
これ恐怖すら感じません??
だって、日本は高度経済成長期はサラリーマンとして「モーレツに」働いた対価として、「賃金の上昇」を経営者含む株主に求めていたわけです(で、メインバンクや株式持合の経営の名残で従業員重視の経営が成り立っていた)。年金をもらって生きている年配の時代はそれこそ「頑張って働いた分だけ、お金がもらえた」というなんともメリトクラシーな社会だったわけです。つまり、努力したら報われる平等な社会ってことです。
今は、そんなこと言ったら「そんなお金ほしいなら、転職/副業すれば?」とか言われる時代です。これは完全に「自由主義経済/小さな政府推奨によって、最後は自己選択と自己責任に転化される」の流れを受けています。つまり、「その職場を選んだアナタが悪いんじゃない?」と自己責任に摩り替えられるわけです。悲しいことに頑張った対価として金銭的報酬を企業/属しているコミュニティ求めることが憚れるのです。(もっとも企業側がそういう要求に応えられない経営状況なのが真の問題なのですが、ここでは一労働者の目線で考えると)そりゃ、企業への忠誠心なんてなくなります。。。「最近の若者は根性なくてすぐやめがち」などの文句は実態が全くわかっていないわけです。
そしてもっと恐怖な点は、「その敗者を『消費での自己実現』をめぐる競争に邁進させて経済を回す」部分です。要は、ハイパー・メリトクラティックな選抜方法だと、どうしても不平等な社会になります(だって、面接の良し悪しなんてわからないし、相対評価だから常に正解がないゲーム)。でも、学校教育は平等社会が続く神話に支えられています(本当は機会の平等が担保されているだけで十分恵まれているんだけど)。
こうして、自分の道が閉ざされた(それこそ、「有名企業に内定を取れなかったから人生オワッタ。。。」)と感じる若者をエサにビジネスがまかり通るわけです。典型的なのが、就職活動を支援するという名の学生側からお金を搾取するビジネスですね。冷静に考えたら、入社した会社だけで、人生決まることはないわけで、入社以降の努力である程度の欲望はどうにでもなるはずなのに、そういった差異を競い合わせる(象徴的なのは、多分「三菱商事と三井物産内定しましたが、伊藤忠に行きます!」、とか「一応、マッキンゼーとBCGから内定もらいました(すまし顔)」)ことで、他者承認をベースに搾取するゲームが行われているわけです。。。尤も、「合コンでモテるんだからいいんです!」という短期的なincentiveを享受することにゴールを置いているなら全く問題ないです。
幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」 でもこう語られています。
「他者の承認を得るもっとも簡単で確実な方法は、自分の価値観を他者と同じにすることだ。女子高生の間で流行したルーズソックスのように、成熟した大衆社会では、人々が他人の望むものを手に入れようと行動する。不恰好な靴下は、マイホームやマイカーや学歴や肩書きなど、私たちの社会で価値があるとされるどんなものにも置き換えられる。そこでの個性とは、傍から見ればどうでもいいような微細な差異を競うことだ」
幸せの第一歩は、そういった微細な差異を競う世界と距離を置いて、自分にとって生き心地がいい世界を見つけることなんだと思います。
東京に帰ってきて感じるのは、「幸せそうに生きているけれども、正直なところ、結構満たされていない」人が意外と多い。これは都市に住む宿命である「自己の代替可能性」と折り合いをつけなければいけないわけですが、それを支えるコミュニティが実はSNSによって本来ならば閉じるべきが、開かれてしまうことによって連帯が分裂していることが原因だと思っています。
追伸:働き方4.0 はまさに令和時代におけるバイブルになるでしょう。橘玲は、15年も前から終身雇用の終焉、新卒一括採用の幻想、年功序列の賃金制度の崩壊、といった徐々に訪れる日本社会の制度の歪みに対して、「個人」レベルでできることを整理した建設的な解を提示しています。
0 件のコメント:
コメントを投稿